不幸な生涯を送るはずが…。食肉工場から救助されたヤギ親子の物語
そのヤギは、食肉工場で生まれました。

そのこと自体は、特に珍しいわけではありません。ワシントン州の動物保護団体Puget Sound Goat Rescueの創設者バーバラさんは、ヤギの子供が生まれる場所は、つねに食肉工場だと言います。そこで生まれたヤギの子供が生き残ることは、通常ではあり得ません。
「子供のヤギの扱いはひどく、母親とは離ればなれになり、母親は解体処理され、食肉になります。そして、子供は放っておかれます。食肉工場で生まれるということは、数多くの不幸が舞い降りるということなんです。」と、バーバラさんは説明します。

母ヤギのおかげで命拾いしたフィン
この子ヤギにとってはありがたいことに、食肉工場のオーナーは、この、のちにフィンと名づけられる子ヤギに思うところがあったようです。彼はバーバラさんに連絡をとり、この食肉工場で生まれた子ヤギは、バーバラさんのところへ送られることに同意しました。
あるボランティアが、フィンを助けに食肉工場へ急行しました。「飼育環境は極めて悪いもので、水も食料も十分になく、動物たちはギュウギュウ詰めでした。」

フィンが助かった理由はただ一つ、彼の母親のおかげでした。「彼女が、フィンが連れて行かれてしまうことを拒絶し、守っていたんです。」と、バーバラさんは語ります。
フィンは母親と一緒にいたので、食肉工場に向かったボランティアメンバーは、フィンと母親を同時に引き取ることを決めました。
バーバラさんは、「母親の方は、引き取るのにお金を払う必要がありました。運の良いことに、食肉工場のオーナーは、ヤギ1匹にそんなに高い価格を要求しませんでした。10ドルや、20ドル程度でした。工場にヤギは山ほどいますし、いくらでも新しいヤギが工場に運ばれてくるからです。」と、当時の状況を説明します。

フィンはとても小さく、柔らかい毛皮と大きな青い目をした、弱弱しい子供でした。「彼はウサギと同じぐらいの大きさで、おそらく体重は4ポンド(約1.8キロ)程度でした。」と、バーバラさんは言います。
彼はとても小さかったので、彼のケアには多大な労力が必要でした。幸運にも、彼には、ファイユと名づけられた彼の母親という、最高の保護者がいました。

ファイユがフィンを世話したように、保護団体のメンバーたちは、ファイユの世話をしていました。ファイユ自身の健康状態も、決して良くはなかったからです。
「彼女はとても痩せていて、前足も後ろ足も化膿していました。食肉工場では、不潔な汚物の上で、立っていなければならなかったからです。ファイユは、後足のつま先を切断しなければなりませんでした。化膿が骨まで広がっていたからです。彼女の健康状態を良くするまで、1年以上かかりました。」と、バーバラさんは語ります。

あまり良くない健康状態にもかかわらず、ファイユはフィンが大きくたくましくなるまで、世話を続けました。

この2匹は、本当に仲が良い親子でした。

「夜はぴったりくっつき、草むらにも一緒に行って、2匹で楽しんでいました。いつも、2匹は一緒でしたよ。」

フィンは大きくなるにつれて、保護施設で沢山の友達を作りました。その友達の中には、カウボーイと名づけられた、歳をとったヤギもいました。「フィンは、カウボーイについていくようになり、夜は一緒に眠りにつくようになりました。本当の兄弟みたいでしたよ!」
Puget Sound Goat Rescueは、15年以上活動を続けている動物保護団体で、ヤギが住むことができる施設や建物を、可能な限り探しています。そうすることで、数多くのヤギの命を救えるからです。
バーバラさんとボランティアメンバーたちは、すでに数匹のヤギを引き取っているある家族が、フィンを引き取ってくれた時には、本当にありがたく感じました。「多くのヤギの友人に囲まれて、素晴らしい生活をフィンは送っています。彼らはヤギと一緒に遠くの町へ引っ越しましたが、フィンは楽しく生きてますよ。」と、バーバラさんは嬉しそうに語っています。

ファイユは、健康上の理由から、Puget Sound Goat Rescueで暮らし続けました。彼女は老衰が原因の心臓病で、去年死にましたが、良い生涯を送りました。
バーバラさんは、「彼らを一緒に救い、彼らが生きる姿を見れたのは、本当に良かったです。フィンもよくやってますし、両方の命を救えて、素晴らしいことでした。」と、インタビューに答えてくれました。(thedodo)
日本にも食肉工場はありますが、その中での作業はなかなか凄惨なものだと聞きます。今更、全ての食卓から肉を排除することは、不可能かもしれません。それでも、命を頂いているということを自覚しながら、日々の食事をしたいですね。「いただきます。」の言葉通りですね。